最近、なるべく時間を作って本を読むようにしようと思っている。だけど、「本は読まなくてもいい」?
"人は、いつか読みたいと願いながら読むことができない本からも影響を受ける。そこに記されている内容からではない。その存在からである。私たちは、読めない本との間にも無言の対話を続けている。" https://t.co/FXMWQ3CgZU
— yomoyomo (@yomoyomo) 2019年3月9日
私は読書家ではないし、愛書家でもないのだけれども、この感覚には共感できる。ある種の本は、「そこにあるだけで」いい。その本が「いつでも手に取れるところにある」(今は手に取らないけど)、「読みたくなったらいつでも読める」(今は読まないけど)、ということだけで、満ち足りた気持ちになることがある。
たとえばどういう本か、と問われても、それを書くのは恥ずかしいんだよね。なんか、自分の心のうちを見透かされるような気持ちになるから。恥をしのんであえて書くなら、例えばジョイス/柳瀬尚紀の「フィネガンズ・ウェイク」とか、池澤夏樹編の「日本語のために」とか、グレイの「世界で一番美しい元素図鑑」あたりは、その本を書店で見かけた瞬間に「ああ、これは手元に置いときたい」と感じて、すぐに買ったものだった。
ちょっと方向性の違う話だけど、中高生のときに買った文庫本とか新書本を大量に処分したのは大失敗だったなあ。「世界史こぼれ話」とか「進化した猿たち」とか、すっかり入手困難になってしまった。文庫本なんていつでも再入手できるような気分になってたけど、とんでもない間違いだったな。
(えーっと、この記事「読書」タグでいいのか? 全然「読んで」ない話だけど。)
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