ゴツい本です。いやあ長かった。読了までに半年かかりました。
対米開戦前後の日本の歴史について、一般的な見方では、軍部の台頭が政党政治と民主主義を押しつぶして、国民の自由を奪い取りながら戦争に突き進んでいった、とされています。この歴史観の主役は政治家たちであり、「普通の人々」は単に政治に翻弄される受動的な存在とされています。これに対して、本書は別の視点を提供します。つまり、対米開戦を強く臨んでいたのはむしろ「普通の人々」であり、当時の政治家はその世論の動向を無視できず、無謀な戦争に突入していった、という見方です。本書はこの見方を、「普通の人々」が残した多くの日記、および政治家たちの公式記録や回想録・私信などを参照しながら、論証していきます。
本書は、まず大正時代が「解放の時代」であったこと、つまりさまざまな属性の人々がそれまでの桎梏から自由になろうと声を上げていたことから始まります。そして、その「解放」を目指す人びとのことを苦々しく見つめる人の存在に目を向けます。「解放」を目指す人と「引き締め」を目指す人との間の勢力争い、これが著者の言う「人びとの社会戦争」です。
大正から昭和初期にかけての、若者たちの自由の謳歌、そして性的放縦を良しとしない人々は、さまざまな形で「引き締め」を呼びかけますが、なかなか成果は上がりません。一方、「解放」を目指す人々も、旧来からの社会の構成要素として生きている以上、「解放的な」行動・言動にもなかなか徹底することができません。誰もが行き詰まりを感じていたときに、満州事変が勃発し、世論が一気に「関東軍の断固たる行動を支持する」方向に変動した、というのが著者の見立てです。「引き締め」を目指す人々は「らしさ」(男らしさ、女らしさ、妻らしさ、など)の復権を唱えており、満州事変はまさに「男らしさ」の具現として受け止められた、ということです。
もちろん、そこに各種メディア(当時は主に新聞・雑誌)の役割が大きかったことは言うまでもありません。満州事変勃発当初は、批判的な言説も掲載されていたものが、在郷軍人会や右翼団体による不買運動に遭って、「売れ行きに影響するようなことは自然遠慮するようになる」(文藝春秋での記者座談会での発言要旨)という判断をするようになります。よく知られた、「信濃毎日新聞」の桐生悠々の論説への猛反発、および同紙の謝罪事件もこの時期のことです。
本書で論考されている内容の中で、「解放派」と「引き締め派」は完全に分離されていたわけではなく、一人の人の中でも揺れがある、というのは秀逸な分析だと思います。これは個人の日記などを丁寧に追いかけていかないと見えてこないことです。社会戦争は、強く一貫した主張を持つ人たちの間での衝突ではなく、特別な思想を持たない「普通の人々」の間の意見の相違であり、それが世論を形作って国家に無謀な開戦をも決断させてしまう、ということが、本書から学ぶべき一つの大きな教訓でしょう。
「あの戦争」は多くの人に大きな傷を残したわけですが、どうすればそれを回避することができたのか、本書を読んでも見えてくることはありませんでした。しかし、「普通の人々」の声が政治の動きに反映された結果があの戦争だった、ということなのであれば、「新しい戦前」とも言われる現在、やるべきことがあるようにも思います。「戦争」または「戦時体制」を好み、切望している人がいることをまず認めた上で、「そうでない人」(私はおおむねこちらに属しています。もちろん一定の揺れはありますが)の声がかき消されてしまわないように、声を上げ続けることが必要なのだと思っています。
