2019年12月14日

「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(ブレイディみかこ著、新潮社)

 イギリス社会の分断を「保育士」「子育て母さん」の立場で舌鋒鋭く描くブレイディみかこさん。今回の主役は、中学生の息子さんだ。

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 カトリック系のセレブな小学校から、突如「元・底辺中学校」に進学した息子。カトリック系の中学校に進学しようと思えばできたのに、わざわざ「元・底辺中学校」を選んだ経緯が、最初の章に描かれている。ママ友たちはびっくりしただろう。しかしね、反体制の魂がふつふつとたぎっているブレイディさんの子供だもの、そっちを選ぶことに何の不思議もない。取り立ててそういう思想がなかったとしても、やはり価値観は受け継がれているだろうから。

 そして、予想通り、息子は入学早々からややこしい小トラブルに巻き込まれていく。車に乗った若者に差別語を吐かれたり、クラスメートに「春巻きの声はいやだ」と言われたり(これだけじゃ意味がわからないだろうから、ぜひ本文を読んでください)。そんな中で、東洋人としての被差別体験の大先輩たる母ちゃん(ブレイディさん)との会話を通して、息子はたくましい心を身につけていく。また、母ちゃんも折に触れて「宿題」をもらう。

 自分が差別されるだけではない。他にも移民の子供たちがおり、また貧しい公営住宅に住む子供たちもいる。「多様性」は面倒くさくて、ややこしくて、楽じゃない、ということに気づいた息子に、母ちゃんは言う。

「多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」

(本書60ページ)

 そう、それは正しい。でも、そこに至るまでには、大きな葛藤を引き受けないといけない。とりわけ厄介なのは、その葛藤の場面には必ず相手がいて、その相手はこちらとは正反対の立場でやはり葛藤(というより単純な不快感)を持っている、ということだ。本書の中ほどに出てくる、日本に帰省した時の DVD レンタル屋さんでの体験が切ない。ガイジンの子供を連れているブレイディさんに対して、店員があからさまな敵意を向けるのだ。居酒屋で会った酔っ払いのおっさんもそう。多様性への道は険しい。息子は、日本語を解さなくとも、自分に向けられている敵意をはっきり認識している。彼はイギリスでも日本でも「ヨソモノ」扱いなのだ。でも、彼はそこにとどまらない。差別されている者たちの間の一種の連帯感にも気づいていて、それをも醒めた目で見つめている。なんと賢い子なんだろうか。

 母と息子の「成長物語」に彩りを添えているのは、ブレイディさんの文体だ。なんというか、とてもリズミカルなのだ。ものすごい勢いでまくしたてたかと思うと、突然ぴたっと止まったりする。その加減が絶妙。私はブレイディさんの親しんだイギリスのパンクミュージックについては全く無知なのだが、そういう音楽的な感性がこの文体のベースになっているのかな、と感じる。

 本書の締めくくりに語られるのも、音楽の話題だ。息子が「グリーン・イディオット」という「パンク・ラップ」バンドを結成し、環境問題デモ(例のグレタ・トゥンベリさんがやってたやつだ)に行けなかった疎外感をラップにして吐き出す。そして、自分の色はもはや「ブルー」ではなくて「グリーン」だ、その「グリーン」には「未熟な」「経験が足りない」という意味もあるんだ、と言いだす。中学生にしちゃあ、えらくかっこいいセリフ。彼が成人する頃には、どんな言葉を語るようになるんだろうか。

(10月ごろに書いていたのだけど、なぜかアップロードを忘れていた。なんか時機を逸した気分…)

タグ:読書
Posted at 2019年12月14日 09:16:37
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