「感性」と「論理」がともに重要なのはまったくその通りだと思う。だけどね…
【時代を生き抜くカギは「感性と論理」の融合だ】 芸術の背後に潜む数学から「創造性」を学ぼう : https://t.co/OT3T8Ltt0a #東洋経済オンライン
— 東洋経済オンライン (@Toyokeizai) 2018年6月13日
大作曲家バッハの楽曲には、譜面の左右対称、上下対称、点対称、平行移動などを自由に音楽的・有機的に組み合わせ、まるで建築のような美しい構造が音楽の神秘・美を生み出しているものが多数存在する。
たとえば、『蟹のカノン』を一人が冒頭から楽譜を読み、もう一人が最後からさかのぼって楽譜を読んで同時に演奏すると、バッハらしい、美しい音楽が生まれる。
「蟹のカノン」ってそんなに美しいか? 知的な曲だとは思うけど、音楽としては「破綻してないけど、魅力あるものとは言えない」というのが真っ当な感想じゃないかと思う。そもそも、カノンって無理のある音楽形態ですよ。バッハはカノン形式の曲をたくさん作っているけど、音楽的に魅力あると言えるのは「音楽の捧げ物」の無限カノンぐらいじゃないか。
カノンの他にも、バッハの音楽には「数字の謎解き」みたいなものがあちこちにあるらしい。有名な例は BWV803 のヘ長調デュエットだけど、これも音楽的には「なんだかよくわからない、イマイチ面白くない」というのが妥当な線だと思う。
バッハの音楽の大きな特徴は、確かに論理的で説得力のある音の運びにある。しかしながら、バッハの音楽を感覚的に「美しい」と感じる瞬間って、しばしばその論理性から一歩はみ出したところにあるんじゃないですか。
例えば、「トッカータ・アダージョとフーガ (BWV564)」のアダージョの最後の Grave のところ。こういう展開になる必然性って何もないよね。でも、この F#dim7 on B♭ の和音は、思わず息を呑むほど美しい。
あるいは、平均律第1巻第1曲のプレリュード。バスが F# → A♭→ G と動くのって論理的には変じゃないですか。でも、この A♭の1小節は、聴き手の意表を突いた見事な寄り道だと思うのです。
ちなみに、これがツェルニー版だとこうなっちゃうわけです。これは、ツェルニーの凡庸さを後世に知らしめた、音楽史に燦然と輝く改悪でありますね(余分な小節を挿入したのはツェルニーじゃないけど、それを採用した時点でダメでしょ)。
最初の記事の話に戻ると、「感性が大事」という話に持って行くんだったら、なんかもう少し、筆者の「感性」に信頼をおきたくなるような文言が欲しかったなあと思うんですよ。遠近法が正しいだけで優れた絵画になるわけではないのと同様、音楽の論理構造と感性に訴える力は別物です。楽譜の「点対称」とか「左右対称」に至っては言わずもがな。そういう切り口がないと、結局「感性って言ってるだけで、実は論理しか見えてないじゃん」ということになってしまう。
正直言って、こういう独りよがりな人が語る「教育」論はあまり信用できないと思う。でもなんかこの人、「STEAM教育者」とか自称しちゃってるんですよね…