楽譜を読むのが好きなもので、書名に大いに興味を惹かれて読んでみました。自筆譜の話は確かに面白い。でも、楽譜の話は半分ぐらいなんだよね。現代の商業音楽とアカデミックな音楽界を批判することに相当のページが割かれている。商業音楽批判については共感できるところが多いのだけど、音楽界批判については、なんか「自分を相手にしてくれない音楽界」への怨念みたいなものが立ち昇って来て、息苦しさを感じる。あんまりバランスの良い本ではないですね。
「平均律」の解説について、市田儀一郎氏の分析本や矢代秋雄・小林仁氏の対談本を「読む価値無し」と切り捨てているのも、ちょっとやり過ぎじゃないかと思った。これらの本を読んだら余計にバッハの理解から遠ざかる、なんてことはないと思いますよ。市田氏は音楽学者、矢代氏と中村氏(本書著者)は作曲家、小林氏はピアニストなので、それぞれ視点が違っていて、相補的に理解を深めることができる、という見方でいいんじゃないのでしょうか。
とはいえ、興味深い内容も多い。たとえば、ショパンの自筆譜についての考察。ショパンの作品の実用譜には、意味のわかりにくい記述がときどきあるので、「本当はどう書いてあるんだろう?」と知りたくなることはよくある。ちなみに、ショパンの練習曲 Op.10-1 の自筆譜に見られる「視覚的なパターン」をコンピュータ組版で再現する試みを、ダグラス・ホフスタッター氏が 1982 年に紹介している(「メタマジック・ゲーム」ホフスタッター著、竹内ほか訳、白揚社、第9章)。みんなが自筆譜を見られるようになるのが一番いいのだが、それが難しいのであれば、「特徴をとらえたコンピュータ組版」というのは面白い試みかもしれないね。
(バッハの作品の自筆譜は、IMSLP にかなりの数が公開されています。平均律なんて、いろんな写本を見比べることすらできる。ベートーヴェンの自筆譜もあります。ショパンのエチュードの自筆譜は[まだ?]ありません。)