原発についての問題提起を続けておられる「全国紙」記者、青木氏による近著です。
この帯を見ると、えらく挑発的・扇動的なイメージを受けますが、内容は全くそうではなく、取材した事実を淡々と記述してあります。青木氏が参画された「プロメテウスの罠」では、重要な事実を明らかにしつつも、情緒的な記述が目立ち、私はかなり苦手意識を持ったのですが、本書にはそういう要素はほとんどありません。
原発推進派の人への取材はなかなかできなかったようです。おそらく、青木氏自身が鮮明に「反原発」の立場なので、推進派の人は取材に応じてくれないのでしょう。わずかに推進派の人の肉声が示されたのは、青木氏が「原発回帰」を決めたイタリアに取材に行った時の様子です。
ウルソ大臣へ質問するために私は何度も挙手したが、当ててもらえない。仕方なく、「ぶらさがり取材」を試みた。
——地震の多いイタリアで、なぜ原発をすすめるのですか?
「私たちは、原子力が絶対に不可欠だと考えています。(中略)SMR(引用者注:小型モジュール炉)という将来の技術と共に組み合わせることが絶対に不可欠です。なぜなら、私たちは自らの自由を保障したいからです」
——地震が多い国でもですか?
「科学と技術は存在します。そして科学技術があれば、どこが安全な場所かを理解することができます。私は科学技術を信頼しています」
そう言って、足早に去っていった。
本書128-129ページ
日本の推進派の人々も、だいたいこれと同じようなご意見なのではないかな、と推測します。しかしながら、(ここからは本書の主張ではなく私の考えですが)、SMRが仮に実用化されたとしても、核物質拡散への懸念と、使用済み核燃料の行き場の問題は何も解決していません。特に、国土の狭い日本では、使用済み核燃料の行き場は深刻な問題です。この問題を、推進派の人はどのように考えているのでしょうか。本書には、なんともすさまじい証言が紹介されています。
2004年、ある官僚が自民党の重鎮だった与謝野馨氏に「核燃料サイクルには膨大な国民負担が生じるため、一度立ち止まるべきだ」と話をしに行ったという。(中略)すると与謝野氏はこう答えたという。
「君たちの言っていることは、全部正しい。ただね、原子力っていうのは『神話』なんだ。核燃料サイクル施設が動く動くと言って、目の前のトイレなきマンションをぽーんと30年先まで蹴り出すことができるんだ。再処理がまともに動くなんて、誰も思っていないよ。そんなこと俺もわかってるよ」
本書206ページ
いやこれ、本当ですか?! 伝聞に伝聞を重ねているから、真偽は不明です。でも、与謝野氏が上のように語ったかどうかはともかくとして、現実はまったくこの通りに動いています。青木氏が下のように書く通り、放射性廃棄物の問題は「無限に先送りしている」だけなのです。
廃棄物はいつかリサイクルできるようになる、処理場もできるというのは幻想であり、砂漠の逃げ水のように果てしなく先延ばしになっている。
本書207ページ
また、先のイタリア・ウルソ大臣の発言にあった「科学技術があればどこが安全な場所かを理解することができる」というのは原理的には正しいのですが、(イタリアは知らず)日本で現実に起きていることは、「どこに原発を立地するか」が先に政治的な事情で決定され、「科学技術」はそれを公衆に追認させるためにのみ利用されている、という現象です。「科学技術への信頼」は、科学が政治・経済から完全に独立している場合にのみ担保されます。本当に国の将来を熟慮する政治家ならば、「科学の独立性」を守り、「科学技術への信頼」が担保されるよう尽力するでしょうが、現在の日本の政治家に、そのような気概のある人はどうも見当たりません。政治・経済から完全に独立して、純粋な科学技術として原発を評価したとき、果たして「推進する」という答えは出てくるのでしょうか?
本書第6章「原発回帰 権力の舞台裏」には、大手電力会社がどのように政治家と手を組んで、原発推進を進めてきたかが描かれています。私としては、なぜ、電力会社がそこまでして原発を推進したいのか、ということに次の関心が向きます。日本のあらゆる巨大プロジェクトに共通する「いったん始めたことをやめられない」という宿痾はあるのでしょうけど、それだけなのでしょうか。この仕組みを理解していかないと、政治決定はいつまでも「大手電力会社の意向=原発推進」に沿ったものであり続け、原発ゼロへの方向転換は難しいように思います。
