「かつて」若き右翼の論客だった古谷氏が、日本の右傾化の主役は50代以上のシニア層である、と説き、その成り立ちを考察する書です。
本書では、まず1982年生まれの古谷氏が、2010年にいわゆる「保守論壇」に入り、そこで見たものについて語られます。
私の中の政治的右翼のイメージというのは、(中略)「燃え盛る青年の、かつマイノリティにせよ滾る(たぎる)愛国心を持った青年たちの居場所」だと思っていた。ところが現実の保守界隈は、一言で言えば老人ホームだった。
本書40ページ
これは古谷氏の実体験でもあるし、また2010年代後半からネット(ブログ、SNS)を通して刑事事件を起こしたネット右翼の多くが50歳以上であった事実によっても裏付けられます。なぜ、いわゆる「保守論壇」がシニアによって支えられるに至ったのか。古谷氏は、以下のような論を立てます。
- ゼロ年代、ADSLと光ファイバーの普及によって、ブロードバンド環境が急速に普及した。
- シニア層の多くは、この時期に初めてインターネットの世界に接した。
- 2007年にYouTubeが日本に上陸し、2009年に「日本文化チャンネル桜」がYouTube配信を開始した。
- 戦後生まれの現シニア世代は、一応「戦後民主主義」のもとに育ったことになっているが、「戦後民主主義」は種々の事情によって非常に脆弱である。
- YouTube動画を通して、歴史修正主義に触れると、シニアの戦後民主主義は容易に崩壊して、極端な右傾化に走ってしまう。
古谷氏は、2 に付随して「(ブロードバンド以降にインターネットユーザーになったシニア層は)ネットがいかに不確実であり、その内容のほとんどがウソかもしれず、よって基本的にネットに書かれていたり言われたりしていることは疑ってかかるべきだ、という1990年代中盤以降の私たちの常識を共有していない」(本書136ページ)とも指摘しています。しかし、この「ネットの常識」は、古谷氏と同世代の人の中でも必ずしも広く共有されていたとは言えないと思います。そもそも当時ネットにつながっていなかった人は、その常識を共有していません。また、ブロードバンド普及の初期で、まだテキストサイトの情報が主流だった2002年日韓ワールドカップの頃にも、見るに耐えない「嫌韓」ページは存在していたし、当時の若い世代でそれに影響されてあからさまなヘイトを撒き散らす人もいました。当時は SNS がなかったから目立たなかっただけです。従って、古谷さんの言う「1990年代中盤以降の私たちの常識」の欠如は、シニア世代が特に強く右傾化に走ったことの主要因とは言えないと思います。
シニア世代がとりわけ歴史修正の主張に影響を受けやすかったのは、脆弱な戦後民主主義のもとで長く人生を過ごし、その矛盾に疲れを感じていたからではないかな、と思います。古谷氏が本書第四章「未完の戦後民主主義」で詳述している通り、戦後の日本は、まずアメリカの指導のもとに民主主義への転換を強制され、その直後に、これもまたアメリカの都合によって復権された戦前旧体制の指導者たちの支配下に置かれました。国の基本原理である憲法で先進的な民主主義を謳いながら、社会構造は旧体制を温存している、というダブルスタンダードの社会が、現在に至るまで続いています。この矛盾を抱えた社会を生きていく中で、旧体制において「弱者」だった人たち(女性、障害者など)は、「まだこの社会は変わっていない、しかし社会はこれから変わる、これから変えていける希望がある」と考えます。しかし、旧体制において「強者」だった人たち(差別される要素を持たない男性)は、「前のままでよかった、戦争終結直後に血迷って転換したのが間違いだった」と考えます。後者のような葛藤をずっと抱えてきた人たちが、YouTube にあふれる煽動的動画の「一撃」によってそれを表面化させた、ということだと思うのです。
本書の内容からは少し外れますが、日本国憲法に対する考え方においても、同じような二分化が起きていると思います。旧体制での「弱者」だった人たちにとっては、日本国憲法は「まだ見ぬ真の民主主義の実現のための拠り所」として守るべきものです。一方、旧体制での「強者」だった人たちにとっては、日本国憲法は「旧体制に戻る際の最大の障害」にしか見えない。改憲論者、特に第三章「国民の権利及び義務」の改正を主張する人たちは、このような考え方に基づいているのだろうと思います。
古谷氏は、エピローグ「この国に『真の民主主義』は可能か」の中で、「何を抜き出しても悲観的要素しかない」(282ページ)と嘆きつつも、「(未完の戦後民主主義を根底から改良するためには)国内でシニア右翼への対抗勢力の基盤を強化することが最も近道と言える。」(286ページ)とわずかな希望も見出しています。
私は、特に大切なのは、あらゆる事柄を「ふんわり」「ぼやん」と情緒的に消費するのを止めることだと思います。未完の戦後民主主義を改良するにあたって、私自身の考えは、現行の日本国憲法の精神を遵守して、それと相容れない旧体制の残滓を粘り強く取り除いていくべき、というものです。これに対して、「戦後民主主義は根本的なところで誤っており、旧体制を取り入れるように改良すべき」という立場をとる人があるならば、旧体制によって権利を著しく侵害されてきた人々を今後の国家体制においてどう保護していくのか(それとも保護する必要はないと切り捨てるのか)、論点を明確にすべきだと思います。こういう明確な議論を抜きにして、「ふんわり」と、「みんなの権利を守るために思いやりの気持ちを持ちましょう」ではいけないし、「昔の輝かしい日本を取り戻そう」でもいけません。後者は、一見語り口が力強いので「ふんわり」していないように見えるかも知れませんが、具体的な内容が何もないので、やっぱり「ふんわり」しているのです。「言い切る口調」と「合理的な議論」は全く別物です。
これを実現するためには、教育機関・研究者・メディアの役割は大きいのですが、それと同時に、われわれ一人一人が「判断を誰かに丸投げしないで、自分の意見を持つように努める」ことも重要です。自分もシニア世代なので、学び続けて自分の考えをアップデートしていきたいと思います。