最近、中学生の坊がこの本を読んでおります。「おもしろい」そうです。いいチョイスだよね(図書館で借りてきたのは妻だけど)。なんとなく、小言を言った時のヘリクツに磨きがかかってきたような気がするのは気のせいか。
そんなことがあった後に、下の記事を読んだ。
【私がそれでも道徳の「教科化」に賛成するワケ】 「自由、民主主義、愛国心」を論理的に考える : https://t.co/AkuTIWwQrF #東洋経済オンライン
— 東洋経済オンライン (@Toyokeizai) 2018年9月6日
いろいろ問題点が指摘されている道徳の「教科化」、なんでこの人は賛成してるんだろう、と思って読んでみたら、こういうことだった。
文部科学省は、これからの「特別の教科 道徳」は、「考え、議論する道徳」であるべきだと言っています。結構なことでしょう。だったら、私たちは、仰せのとおり、「道徳」の授業で、それを「考え、議論する」べきです。「自由」とは何か。「国家」とは何か。「民主主義」とは何か。これらを、論理的に、「考え、議論する」べきなのです。
つまり、実は教科としての「道徳」とは、本来、「哲学」と同義であるということです。
そういう見方があったのか。確かに、「道徳」の授業で実際にやることといえば、いろいろな状況を設定して「こんなとき、君はどうする?」と考えることである。それは哲学であると言えなくもない。ただ、今の学習指導要領に書かれている「道徳」の到達目標は上のようなものとはかけ離れているし、今後も近づくことがあるとは思えない。現場の先生が道徳の時間で「国家とは何か」を考えさせるとしたら、ずいぶん気骨のある先生だと思うけど、そういう授業はなかなか難しいんじゃないですかね。
しかしながら、「考えない」ことが氾濫しているこの世の中で、「哲学にもっと注目すべきだ」という声が徐々に高まってきているのは、意義あることだと思います。ある意味、「文系学部なんてつぶしてしまえ」という(乱暴な)考え方に対する文系学者の反撃なのかもしれないけど、そういう反撃はどしどしやってもらいたい。