「ロシアに行ってきました。」

 2006年8月にロシアで開かれた国際会議に行ってきました。なかなか面白い旅だったので、書き留めておこうと思います。

出発するまで

 まあなんといっても面倒なのはビザの取得ですね。今回は国際会議への出席なので、先方から招待状を送ってもらって「科学技術交流」ビザを取得した。ロシアの領事館は東京・大阪・新潟などにあるが、愛知県は大阪が管轄になる。わざわざ大阪まで出かけてられないので、航空券を手配してもらった旅行社にビザ取得も依頼した。インターネット経由で手配したので、打ち合わせはメールと電話で行い、パスポートを宅急便で送ることになる。旅行社もロシアの「観光でない」ビザはあまり経験がなかったらしく、「数日で取得できるはずです」と担当の方は言われたが実際には1週間以上かかった。あとで聞いた話だが、観光ビザとくらべてそれ以外のビザは発行に時間がかかるらしい。ちなみに、東京のロシア大使館に電話で問い合わせてみたら、ロシア人の女性が出て来て、こちらが何を聞いても「招待状を持ってこちらに来てください」と(一応日本語で)ぶっきらぼうに答えるだけでいっこうに要領を得なかった。ロシアの役所のサービスの悪さは有名なので、この程度で驚いてはいけないのだろう。

 ロシア入りするルートはいろいろあるが、素直に成田〜モスクワのアエロフロートロシア航空を利用した。これがけっこう混雑している。航空券を手配したあとで会議のスケジュールが変わって、帰国日をずらそうとしたらキャンセル待ちだと言われた。そんなにみんなロシアに用事あるんか、何しに行くねん、と自分のことを棚に上げて思ったが、実際飛行機に乗ってみると日本人のツアー客でいっぱいだった。実は、航空券を手配したのはたぶん5月頃だったと思うが、予定していた出発便はすでにキャンセル待ち状態だった。曜日などとも関係があるのだと思うが、夏のロシアは人気があるんですね。

ロシア入り

 アエロフロート 576 便。先にも書いたとおり、日本人のツアー客が多く、乗務員も日本人が搭乗している。ただし、機内サービスに回ってくるのはロシア人(たぶん)乗務員で、英語はほぼ問題ないが日本語は通じない。機内食は2回出るがそう悪くはなかった。ただ、座席の間の間隔が狭く、よほど後ろの人が小柄でない限り背もたれは倒せない。僕の後ろは大柄なロシア人(たぶん)で、背もたれを倒すと足でぎゅうぎゅう押されて元に戻されてしまった。まあ黙って倒したこちらも悪いからしょうがないが、背もたれを強引に戻されたのは初めての経験である。

 時間より早くモスクワ到着。シェレメチェヴォ第2空港である。「地球の歩き方」に「設備、アクセス、対応、どれをとっても世界の主要国の中で最低ランクの空港である」と酷評されている。インターネットで見つけた別の紹介ページ(英文)にも同様の記述があった。まず、入国審査が異様に遅い。僕自身はパスポートとビザをチェックされて、「東京から?」「そうだ」と二言やりとりしただけでパスしたので、いったい何がそんなに時間をとるのかさっぱりわからなかった。次はバゲッジクレームだが、これまた遅い。かなり時間をかけて入国審査を通過したのに、まだ全然出てこない。しかも、出てくるときも何のアナウンスもなく突然出てくるので、よく注意していないと荷物を受け取り損ねてしまう。その次は税関だが、赤ラインに誰もいない。申告書をせっかく書いたのになんじゃい、と思って緑ラインをそのまま出てしまったが、これは本当は間違いで、緑ラインを通るときにスタッフをつかまえて申告書を見せるのが正しい通り方らしい。申告書にスタンプを押してもらっておかないと、出国時に日本円やカメラ、パソコンなどをとがめられて罰金・没収の憂き目に遭うことがあると聞く。そんなの詐欺じゃないかと思うのだが、なにしろ相手はロシアの役人である。十分な自衛が必要だ。

 シェレメチェヴォ第2空港でもう一つ悪評高いのが、税関を出たところで白タクの運転手の客引きに包囲されることだが、今回は会議主催者がきちんと出迎えを用意してくれたのでここは問題なし。しかし、ここからが長かった。まず、別の飛行機で到着する参加者を待つこと約1時間。まあこれはしょうがない。やっとメンバーがそろったところで、小型のマイクロバスに乗り込む。空港の前はバス・白タク・正規のタクシーなどでごちゃごちゃで、しかも改装工事をしているものだから足下が危なくてしょうがない。なんとか乗り込んで出発。ここから交通渋滞につかまる。空港の近くはまだよく流れていたのだが、モスクワ市街が近くなると車が全然動かない。たぶん距離から言うと2時間ぐらいのはずなのだが、4時間半ぐらいかかった。

 ハイウェイ沿いには自動車のディーラーがたくさんある。日本車の広告が目立つ。スズキ・三菱の看板をよく見かけた。一方、道路を走っている日本車はトヨタ・ホンダが多い。ボルボ・BMV・現代などその他の外車もよく走っている。もっとも半分以上はロシアの車で、「スプートニク」とか「ラーダ」という名前。ロシア車と外車は外見でだいたい見分けがつく。ロシア車はデザインが直線的で、外車が優美な曲線デザインなのと対照的。また、ロシアの車は実によく壊れるようで、ハイウェイの途中でも車を止めて修理している光景を頻繁に見かける。中には、片道3車線のハイウェイの中央車線に堂々と三角反射板を置いて修理している剛の者もいる。こんなのだから渋滞が助長されるんだよ。運転は荒く、頻繁な車線変更、割り込み、無理な追い越し、路肩走行などなんでもあり。モスクワの交通事故は年間どれぐらい起こっているのかしら。ただ、今回故障車はよく見かけたが事故は見かけなかった。みんな運転が上手なのかも知れない。

町の印象

 会議があったのは、モスクワから約 100 km 南で、オカ川に面した地方都市。ロシア科学アカデミーの研究所や大学の分室が数多くあり、一種の学園都市になっている。町にはホテルが1つだけあり、当初これに滞在する予定だったが、事情があって研究所の宿舎に滞在することになった。2LDKのアパートで、内装は相当古ぼけてはいるが、一応水もお湯もちゃんと出るし、キッチンではガスコンロやオーブンも使える。電気のコンセントも各部屋にある。ただ、電話が市内しか通じず、インターネットはもちろんつながらない。ロシアのトイレには紙がないと聞いていたので水に流せるポケットティッシュをたくさん持参したのだが、一応トイレットペーパーが置いてあった。ペーパータオルみたいに硬いので、お尻が繊細な人には辛かろう。

 アパートの内装はこんな調子でまあ快適と言えなくもないのだが、部屋を一歩出るとなかなかすさまじい。壁が落書きだらけなのは、まあ学生寮のノリだと思えばよいだろう。コンクリート打ちっぱなしの階段や廊下は暗く汚れていて、ソ連時代は実は監獄だったのではないかと錯覚するほどである。8階建ての建物でエレベータがあるのだが、これがまた質実剛健なシロモノだった。扉の横のボタンを押すとかごが降りて来て「がっちゃん」と音を立てて止まる。扉を手で開けて乗り込み、内側から廊下側の扉とかごの扉を手で閉めて、階数のボタンを押すとまた「がっちゃん」と音を立ててかごが動き出す。目指す階に止まったら、かごの扉と廊下側の扉を手で開けて降り、外側から廊下側の扉を閉める。要するにほとんどすべて手動制御なのである。プログラムミスで勝手に動き出すようなことは起こりにくいだろう。それにしても、エレベータというよりは荷物専用リフトみたいな使い心地である。こんなエレベータは監獄アパートに特有なのかと思ったら、実は研究所の建物も同じ方式だった。

 この町は、1つの通りに面してこんなアパートがぽつぽつと建ち、別の通りに面して研究所の建物が並んでいる。建物の間は草むらになった空き地で、子供や犬が走り回って遊んでいる。通りと通りの間は花をところどころ植え込んだ芝生か、白樺か杉の林になっている。道路脇にも白樺が植え込んである。緑たっぷりの公園のなかに町が埋め込まれているようなものだ。時間を問わず、のんびりと散歩をしている人をよく見かける。日本のいわゆる学園都市とはだいぶ趣が違う。町の中心部に商店街が一箇所あって、スーパーマーケットが1つと、あと小さな店がいくつかある。日常の暮らしにはまあ困らなさそうだが、大きな買い物をするときにはモスクワまで行くんだろうな。モスクワ行きのバスターミナルもここにある。

 同僚がATMでルーブルを出そうと思い、ホテルで聞けばわかるだろう、と先述の町で唯一のホテルに立ち寄った。が、受付のおばちゃんがほとんど英語を解さない。研究所の事務員さんもそうだった。研究所の学生さんはさすがに英語を話すが、それでも日本の大学生・大学院生とあまり変わらないレベルである。英語があまり通じないととても申し訳なさそうな顔をするあたりも、日本とそれほど変わらない。妙に親近感を抱いてしまった。帰りに乗ったタクシーの運ちゃんなんて、僕が英語で話していると「アメリカ人か?」なんて言うんだもんな。顔見てアメリカ人じゃなさそうなことぐらいわからんのかな。何となく不思議な感覚。

 町を歩いていると、携帯電話の着信音をクラシック音楽にしている人によく出会った。この町には音楽学校もあるので、そのせいかも知れない。学会のオープニングセレモニーでは、音楽学校の弦楽四重奏団が演奏してくれた。曲はロシアものばかりで、チャイコフスキーの弦楽四重奏曲第1番よりアンダンテとスケルツォ、ボロディンの弦楽四重奏曲第1番よりアンダンテとスケルツォ、グラズノフの「5つのノヴェレッテ」、ショスタコーヴィチの「エレジー」「ポルカ」。プロコフィエフを入れてほしかったところだが、なかなか秀逸な選曲ではある。

モスクワ探検

 学会自体はたいへん面白かったのだが、その内容をここで綴っても仕方がないので、帰国前にモスクワで一日過ごした時のことを書く。前日にモスクワ郊外までシャトルバスで移動して、ホテルでまず一泊。なんか外見は幽霊屋敷みたいなホテルだったが、内装は特に問題はなかった。とりあえず食事だ,とホテルのレストランに行ったが、メニューが全部ロシア語でどうにもならない。困っていると、英語のメニューを持ってきてくれた。全部のテーブルに置いておく必要もない程度の頻度でしか、外国人は来ないみたいだな。インターネットは相変わらずつながらないので、持参したガイドブックに頼って翌日の観光計画を立てる。幸い、ホテルから徒歩10分ほどのところに地下鉄の駅があったので、地下鉄で回ることにした。

 ホテルの最寄り駅は、地下鉄6号線のЯСЕНЕВО(ヤーセニヴォ)駅。6号線でОКТЯБРЬСКАЯ(オクチャブリスカヤ)まで行って、5号線に乗り換えてПАРК КУЛЬТУРЫ(パルク クリトゥールィ)駅でさらに1号線に乗り換え。СПОРТИВНАЯ(スポルティーヴナヤ)駅に着いた。お目当てはノヴォデヴィチ修道院である。駅の近くにはスポーツアリーナがあり、何かやってたみたいでそちらがえらく賑わっていた。しかし修道院もまあまあの人出で、ロシア人観光客の一団もいた。

 イコン展示室では何やら特別展をやっていた。その昔(1698年)、ピョートル大帝に反逆した兵士の乱があり、当時大帝から追放されて当地にいた姉のソフィアの差し金によるものと疑われた。その後兵士たちは捕えられ、裁判を受けたが、そのときに反乱した兵の中にピョートル大帝の兵もあったと証言。しかしその証言はのちに撤回された。その経緯を記した文書が大きな鉄板に鋳込まれて、この修道院に保存された。ソフィアは後に名誉を回復され、なくなった後ここに葬られた。裁判の経緯を記した鉄の文書は、ソフィアの墓に一緒に格納されたとのこと。

 修道院に隣接して墓地もあり、いろいろ偉い人が埋葬されているようだったが、いまいちよくわからなかった。あとで調べてみると、プロコフィエフとかショスタコーヴィチの墓もあったみたいだな。修道院を出ると、マウンテンバイクの競技者団体がバスで乗り付けていた。

 再び地下鉄に乗り、1号線・5号線を乗りついでКИЕВСКАЯ(キエフスカヤ)駅、それから3号線でСМОЛЕНСКЯ(スモレンスカヤ)駅へ。モスクワの地下鉄は地下深くもぐって行くので有名だが、特に5号線がすごい。また、1号線・5号線の駅は非常に豪華で美しい。これらの線はけっこう混んでいるので、スリなどには注意が必要だろうね。

 スモレンスカヤ駅からは、アルバート通りを歩く。ここは歩行者天国になっていて、みやげ物屋台や似顔絵描き、自作の絵を売る人などがたむろしていて面白い。マトリョーシカはどこでも売られている。ソ連の旗をかたどったおみやげなどもある。

 通りから少し入り込んだところに、スクリャービン記念博物館というのがある。個人の家みたいな小じんまりした記念館で、ベルを鳴らすと案内員の女性が出てきて、「ここはスクリャービン記念館よ」と念を押す。何をしに来たの、と言いたげだったから、自分はアマチュアの音楽家でスクリャービンに興味があるのだ、と説明した。この案内員は英語を流暢に話し、説明はたいへん丁寧で知識も豊富である。どうやら音楽大学(モスクワ音楽院かどうかは知らない)の学生らしい。館内には、スクリャービンゆかりの品物がいろいろ展示してある。例の色彩オルガンの最初のバージョンがあった。要は色付き電球を並べたものなのだが、スクリャービンがピアノを演奏して、妻が電球のボタンを押して色の演出をしたらしい。案内員は「ロックコンサートのカラーレーザーの元祖ね」なんて言っていた。まあそう言えなくもないかも知れん。自動ピアノもあって、スクリャービン自身の演奏が聞けるようになっていた。これを「採譜」した楽譜もあったので、購入した。MIDI化して公開すればいいのにね。

 ここでは時々ミニコンサートが開かれているらしい。8/30のプログラムは、チャイコフスキーの「四季」(ВРЕМЕНА ГОДА)、プロコフィエフの「つかの間の幻影」「ソナタ7番」。すばらしいプログラムだが、残念ながら聞けないよ。

 アルバート通り沿いのカフェで昼食。チキンのステーキが380ルーブル,水 500 mL が80ルーブルなど。味はまずまずだった。パンが香ばしくてうまい。

 大きな通り(ノーヴィ・アルバート通り)に出て、モスクワ最大の本屋と呼ばれる「ドーム・クニーギ」に寄ってみたが、これは失敗だった。大きすぎて、何がどこにあるかまったくわからない。ロシアの絵本とか見てみたかったのだが、発見に至らず。ロシア語でキーワードをメモして持ってこないと無理だったな。あるいは電子手帳を持参するとか。

 このあたりでちょっと道に迷ってしまった。モスクワ音楽院の近くを通ったような気もする(楽器を練習している音が聞こえていた)のだが、はっきりとはわからない。いつのまにか、プーシキン広場に出ていた。地下鉄に一駅乗って、グリンカ中央音楽博物館をめざす。МАЯКОВСКАЯ(マヤコフスカヤ)駅から博物館までの道は、人通りが少なく、目つきの悪いおっさんとかがいたりして、ちょっと緊張する。

 博物館に入ると、いきなり「日本人か?」と聞かれて、そうだ、と答えると「じゃあ2階へ行け」という。意味がわからんので、いや1階から見るぞ、と身振りで主張して、見学を始める。ロシアゆかりの作曲家の自筆譜なども所蔵しているらしいが、見学したのは楽器展示室だけだった。世界中の楽器が集めてあるのだが、いわゆる西洋楽器のコレクションも充実していて、特に金管楽器が妙に多い。いかにもロシア的ではある。弦楽器はそれほどでもなかった。

 2階に上がると、日本人観光客の団体さんがいた。なるほどそういうことだったのか、さっきは遅れて来たやつだと思われたんだな。団体に混じるのもなんなので、ちょっと離れたところで勝手に見学した。中央アジアから旧ソ連邦の民族楽器のコレクションがすばらしい。アルメニア、アゼルバイジャン、グルジア、キルギス、ベラルーシ、タジキスタン。そこから、トルコ、イラン、モンゴル、韓国、日本、ベトナム,カンボジア、ラオスと続く。さらに、パキスタン、インド、スリランカ、ビルマ、フィリピン、インドネシア。アフリカもある。タイコばかりかと思うとそうでもなく、弦楽器もある。竹製のカリンバみたいなやつもあった。

 ヨーロッパの楽器は十把一からげだが、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビア、ブルガリア,アルメニアなどはきちんと国別にわけてある。鉄のカーテンの向こうは知ったこっちゃない、という感じだね。リトアニア、ラトヴィア(Lettish)、エストニア,モルドヴァ、Gagauz(ガガウズ自治区)。国の説明しかしてないけど、それぞれにもちろん楽器が展示してある。あまりにも多いので、楽器の名前までメモしてられなかった。写真撮影は禁止だしな。

 いくつか目についたもの。モルドヴァにもバグパイプやチンバロンみたいなのがある。ウクライナでは、弦が30本ぐらいある「バンドーラ」とか、ヴァイオリンみたいな胴に弦が張ってあってキーみたいなのがついている「リラ」とかが面白い。カザフスタンには、胴を大きくくりぬいた弦楽器「コムス」がある。ウイグルには、エレキギターみたいな形の弦楽器があった。トルクメニスタンのところでは、「4弦 Chichak's orchestral family」なんてのがあった。オーケストラがあるんかいな。ウズベキスタンには「"Afghan" rubab」なんてのがある。

 一生懸命メモをとりながら見ていたら、にこにこしながら係員が2人近づいて来た。この人たちもあまり英語を解さなかったが、このコレクションは本当にすばらしい、という感想だけは伝わったと思う。

 だいぶ時間が遅くなってきたので、急いでクレムリン付近へ地下鉄で移動。クレムリンの中の見学は断念した。おみやげを買うためにグム百貨店を歩き回ったが、店にはあまりめぼしい物がなく、通路に出ている屋台の方が面白かった。さっきの日本人の団体さん(おばちゃんが多い)がいて、「うわーこれかわいい!」とか叫びながらすごい勢いで買い物をしていた。赤の広場の屋台でマトリョーシカをいくつか購入。ここのお姉ちゃんは英語が上手だった。さすがに外国人観光客が多いところは違うな。

 赤の広場からポクロフスキー聖堂が見える。この玉ねぎ型ドームのケバい色使いはいったい何なんでしょうねえ。ポクロフスキー聖堂を描いた鍋敷きをお土産に買って帰ったのだが、みんな当然デフォルメされた色だと思うわけで、「これホンマにこの色なんやで」と言って写真を見せると「うそー信じられない」という反応が必ず帰ってくる。

 この頃から、迷彩服を着た怪しげな兄ちゃんが広場に集結し始めたので、これはちょっと危険だなと思って、急いで戻ることにした。ТЕАТРАЛЬНАЯ(ティアトラーリナヤ)駅から2号線でНОВОКУЗНЕЦКАЯ(ノヴォクズネツカヤ)へ、ここで6号線のТРЕТЬЯКОВСКАЯ(トレチャコフスカヤ、ノヴォクズネツカヤと同じ駅)に乗り換えて無事ヤーセニヴォに戻って来た。

 駅からホテルに戻る途中、お店に入ってミネラルウォーターを買った。ホテルには炭酸入りのしかなくて、困っていたのだ。通じるかな〜と不安に思いながら、"У вас есть негазированная вода?" と聞いてみると、最後まで言わないうちに店のおばちゃんは大きくうなずいて、炭酸無しの水を出してくれた。やったー、ロシア語通じた!